カテゴリ:Comical Play Club( 2 )
Arrt Dane(2)
Borrah Minevitchの続きを訳してみます。

Band
ミネヴィッチが最初にバンドを組んだのは1925年のことだった。1926年に有名なカーネギー・ホールでチャリティ・ショーのソリストとして演奏し、お客さんに驚かせることがあるといった。カーテンが開いてみると、30人ほどの少年がフォーマルな衣装を着て一流の音楽家のように手にハーモニカを持って座っていた。彼らは「深い河」を演奏し、大受けに受け、アンコールを要求された。それには大変満足したのだが困ってしまった。彼らはその曲だけしか練習していなかったから。
有名なカーネギーホールでの最初のハーモニカ・バンドの成功に元気付けられ、彼はハーモニカ・バンドは演芸場でもっと成功するに違いないと確信した。プロとしてやっていくときが来た。

見込み違い
1927年にシンフォニック・ハーモニカ・アンサンブルへの最初の誘いがかかった。クラシック風の名前からお客はクラシックの曲が聞けるものと期待していた。ミネヴィッチは多分Edwin Frank Goldman がブラス・バンドでやったのと同じようなことをしようとしたのだろう。しかし客は退屈しミネヴィッチはショーを止めてしまった。

ハーモニカ・ラスカルズ
Hebrew Orphans Assylim (H.O.A.)のショーで新聞のカメラマンがLou Delinと両手と肩に乗った3人の子供の写真を写した。彼らは第一次大戦時のユニフォームを着て、4人ともハーモニカを吹いていた。この写真は全国で掲載された。この写真を見てミネヴィッチには新しい演芸グループのアイデアが閃いた。2、3週のうちにミネヴッチはH.O.A.を訪れ、LouとCharles Snowマウスオルガン・オーケストラのリーダに面会した。彼はバンド・メンバーに紹介され、その一人Ben DanskyとLouがミネヴィッチに参加しないかと誘われた。

ボラ・ミネヴィッチとハーモニカ・ラスカルズは、ライバルがたくさんいるにも関わらず大評判となった。ライバルにはCharlie Snowのブロードウェイ・パイレーツ、Charles Benningtonのニューヨーク・ニュース・ボーイズ・ハーモニカ・バンド、Cappy Barrasハーモニカ・アンサンブル、Johnny O'Brienのハーモニカ・ハイハッツ、Murray Laneのハーモニカ・スキャンプスなど、他にもたくさんいた。ハーモニカ熱狂時代には米国のほとんどの市に一つ以上のハーモニカ・グループがあった。数年でミネビッチは100名以上の上手な奏者を集めた。有名なのはErnie Morris (未だに誰も真似できない)、Louis 'Fuzzy' Feldman (ミネヴィッチのお気に入りでchuggerと呼んだ)、Johnny Puleo(最小にして、当時最大のハーモニカを吹いた)がいる。

行方不明
ボラのラスカルズは大変有名になった。成功に次ぐ成功を重ねていた。ところが1932年6月にチュニスでの2日間の滞在延長時に突然「ボラ・ミネヴィッチが溺れた可能性がある。」という記事が主要な新聞紙上に掲載された。
S. Jay Kaufmanへの電報の中でミネヴィッチ夫人は夫がもう4日間も行方不明でありコルシカに到着してもいないので大変心配していると述べている。
ボラ自身はギャンブルに浮かれすぎて負けが込んだため、支払いのためにエチオピアのアベッシニアへ狩に行く途中であった。彼は娘の名前を付けた自分のスクーナー「リディア号」で帆走していた。1932年6月2日にニューヨークタイムズが彼が無事であることを伝えた。コルシカの乗組員が誘拐していたのであった。

続く(ことにしておこう)
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by chromclass | 2005-01-30 00:42 | Comical Play Club | Comments(0)
Arrt Dane
南アフリカへ引っ越してしまって行方不明になっていたArrt Daneさんのサイトを再発見しました。

http://www.geocities.com/artdaane/index.htm

Borrah Minevitchのことが詳しく出ています。

1902年11月5日 ロシアのキエフ生まれ。10才で合衆国へ家族が移民、しかし父は病気で入国できなかった。しばらくして一緒になれたが、それも束の間、父が死亡。

学校卒業後、新聞売りをし、バイオリンを学び、ハーモニカを練習した。18のとき、家族の反対を押し切ってニューヨークへ行き、City Collegeに入り、生活のためにいろんな店で働いた。彼は卒業論文のテーマにハーモニカを選び「ハーモニカの歴史と楽器としてのその欠点」と題した。あるメーカーはその頃5万個のハーモニカを生産していた。

彼の最大の望みはどんな曲でも演奏できる半音が出るハーモニカだった。製造会社は、売れ行きが悪いので製造を中止していた。ある店で$5で売っているのを見つけた。彼は払えなかったので店の人に10セントで試し吹きさせてくれと頼んだ。週のうち、何回かこうして練習し、10セントを払った。店の人は、3年間に一つもも売れていなかったので奇妙に感じたに違いない。

姉の一人が訪ねて来たとき、彼をショーや夕食に連れて行こうとしたが、彼は代わりにそのクロマチック・ハーモニカを買ってくれとせがんだ。姉はそんな考えには反対だったが、最終的には買い与えた。彼は店に行って、痛んでいるようだからまけろと要求した。お店では最初断ったが、また3年間売れないままになることを恐れて$3.25にしてくれた。数週間後、ハーモニカは壊れてしまった。彼は製造会社に出向き、お金を返せと迫った。会社の人は、10年前の楽器に返金するのはばかげていると説明した。彼は謝って、しかし、ハーモニカを吹き始めた。会社の人はあまりの上手さに驚いて、新しいのを代わりにくれた。

・・・ ぜひ続きを訳したいですね。
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by chromclass | 2005-01-15 01:00 | Comical Play Club | Comments(0)